働くということを振り返ってみる。

今もその当時の記憶が曖昧で、勘違い、時系列間違い、抜けなどもあるかとおもいますが、つらつらと書きます。
よかったら、最後まで読んでもらえるとうれしいです。

遡ること19歳の当時、福岡の専門学校を卒業し、就職で麹町にあるテレビ番組の制作会社に所属しました。
当時の私は学生時代から交際していたかたがいました。出会いのきっかけは共通の友人が海外におり、その方の帰国パーティーで同じテーブルになったのがはじまりでした。彼は元々東京で働く社会人の男性で年は6歳上でした。
東京の仕事が決まったと同時に親公認で同棲しておりました。一緒にいるのが当たり前だったので、まだ20代前半でしたが、結婚する準備をすすめていました。

ある日、彼が亡くなったことを彼のお母さんからの電話で知りました。そして私はそのまますぐに警察署にいくようにいわれました。病院じゃないということは亡くなったんだ、行きのタクシーでそんなことを考えていたことだけは鮮明に覚えていて、いまだにタクシーに乗ることがあまり好きではありません。
警察官の方はとても優しくて色々な言葉をかけてくれました。対面した彼は本当に亡くなっていました。

次の日は出勤しましたが、その日を最後に私は外に出ることができなくなりました。

できなくなった理由の最大の要因が
当時使っていた電車から、見える景色の中に、彼の名前の漢字の入っている看板がたくさんあって、それを見るのが死ぬほど辛かったのです。

職場の皆さんは全員優しかったです。
そして引きこもりになってしまった私に美味しいものを届けてくれたのが、今名古屋で暮らしているADの同期だった子です。(今は連絡先がわからなくて、、、どうしてるかな、会いたいな)

今流行りのお風呂キャンセル界隈になって(まって、この界隈の第一人者かなw)どうしようもなくなってしまいました。

でも、周りの支えもあって、3ヶ月もたたず、外に出たり、好きな音楽を聞いたりできるようになった私。

そして徐々に元気になっていき、短期のアルバイトから社会復帰

当時私の貯金は50万も無くて、お金はやばかったけど、ミクシーのルームシェア募集を頼りに、月3~5万とかで都内で暮らし
ていました。笑
いろんな方と暮らしましたが、最後に暮らした新代田の家の
お刺身くん(銀行マンと夜間大学生)とバーテンダーの女の子との暮らしは本当に最高でした。諭くんがお刺身くんがかっこいいから心配していたのが本当におかしかった。あははは。本当に何も無いのにね。母が亡くなったと電話をもらったとき、ちょうどお刺身くんがキッチンにいて、同郷だからなのかとても心配してくれました、大丈夫?飛行機のれる?と言ってくれました。お刺身くんの前で号泣したので、その後の葬式では1滴も涙は出ず、無事に葬儀をこなすことが出来ました。今でも感謝、良い思い出です。

一人の人を愛するという価値観を捨て遊びまくっていた時代を経て(これ書くか迷ったよw)今の夫と出会いました。
うちの夫の諭くんは本当にすごいと思います。諭くんと出会って、この人と結婚するとおもい、私から交際を申し込んだのに、当時私には彼氏が普通におりました。こんなめちゃくちゃな私を大切にするなんて正気の沙汰じゃない。
同じバンドが好きなこと、ドライブデートをして、私の車嫌いが治ったこと、感謝してもしきれないことがたくさんあります。今でも前の彼のものが私の部屋にありますが、それについて言及してくることもありません。そういう包容力の上に私という生命は成り立っております。そして元気になった私の噂を聞いた前の会社の先輩の紹介で芸能事務所の事務を紹介されて、週に2回から入ることになりました。とはいえ収入が不安だったので周りにも相談していました。
東京は怖いと思った出来事も当時ありました。就職活動で親会社がヤクザ経営だった場所、友人の紹介で行ったら出会い系サクラのアルバイトだったこと(そこはやめる時に誰かを紹介しなければやめられないということで、私は友人から生贄にされました)、久しぶりに会いたいと言われて行ったら、ネズミ講の勧誘(私は最初気が付かなくて、契約してしまい、当時のルームメイトたちが、高学歴で、あちこちに連絡してクーリングオフしてくれました)
いつだって周りに全力で守ってもらって、社会の荒波を再びあるきはじめたんです。

また自分のこの体験を何かにとおもい、シナリオ・センターに通いました。
(この成果かわかりませんが、私は絵本の原作に1本、詩が1本採用され、掲載されました。いつか良い脚本がかけたらいいな)

そして、そんな時に、スープストック東京大崎店オープンのニュースを何かで見ました。
諭くんとの結婚を考えていたので、私はもう少し料理がんばりたいなとおもって、求人を探しました。
当時の店長がはちゃめちゃに明るくて、その笑顔にどんなに励まされたかわかりません。
私はオープニングスタッフの二次募集でオープンしてから3ヶ月後くらいからの勤務でした。
だいたいオープンから、昼前くらいの勤務でした。どのメニューも美味しくて、朝じゃがいもをむきながら朝の時間を過ごしていました。ただ当時の大崎は、アルバイトが多く、あまりシフトに入れずで
午後暇だなとおもってまたアルバイトを探して
当時まだ3軒ほどだった、メイドカフェを運営する会社に入ります。
高校時代簿記をもっていたので経理でとおもったけど、面接したあとに、店長が飛んで、キッチンで大野さんというシェフとハンバーグをつくることになりました。ちなみに同期はかけらちゃんです。彼女は今はメイドを引退しましたが、時々ご飯に行ってます♡
しかし当時のぴなふぉあは夕方から夜の5時間くらいの営業だったのと、勤務募集が週に2回だったのでその近くで働けるアルバイトで何かないかな~とおもい、市場調査をする短期のアルバイトを見つけました。
この会社は他言語が飛び交っていて、大変刺激的でした。

いろんな仕事をすることは、テレビ番組でいろんなところにロケに行っていた感覚に近く

本当に楽しかったです。

時代は流れ、2007年に結婚そして、不妊に悩む時期が来ます。

そんな中川崎のルフロンで衝撃的な出会いをします。

それが、うさぎの声が聞こえるという占い師の女性との出会いでした。その方と出会い、タロットをしたときに、妊娠のカードが出ました。



そして、その少しあと、私は妊娠しました。

いろんな話をしていくなかで、私は元々占い的なことが好きだったこと、情報番組の占いコーナーを担当していた人と仲良かったこと、生ダラのスタッフの男性といつもふざけて今日の運勢が~とかエレベーターの中で、言ってたことなど、占いに関することが点と点でつながって、、、突発的に占い師に興味がわきました。

2011年3月11日 東日本大震災 この日の夜に陣痛が来ました。

無事に13日に息子が生まれて、新しい暮らしがスタートしました。

なんの仕事もしてませんでしたが、芸能事務所の事務の仕事の先輩から時々でいいから、復活してほしいといわれ、赤ちゃんを夫がみれる土日だけ勤務スタートしました。

そして子どもが幼稚園に通うようになって、生活クラブの運営委員長としてのボランティア活動をする時代が来ます。
生産者の方と会うことで満たされる感覚と、自分の実家との向き合い方が大きくかわりました。
結局子どもが小学校に入るまでやっていました。
そして小学校3年のときには、子どもの学校の運営理事になり、結局4年間自分なりに貢献しました。

2019年開業届を出して、占い師として活動を開始。

そして、2025年のカレーの日に、スープストック東京からカレーの日の勤務の打診が来ました。
みなさま、本当に優しくて、うれしくて、知り合いもたくさん買いに来てくれました。

そして、また月日は流れ、その冬、年末年始だけの期間限定勤務として再び採用されました。
勤務回数は3回で終了かというときに、延長の打診がありました。そして結局閉店の10月15日まで勤務しました。
9月にいたっては19日間勤務しておりました。びっくり!!!!

みんなの明るさ、個性、真面目さに私は大きく励まされ、最後まで頑張れた気がします。
社員の皆さま、アルバイトのみなさまには感謝してもしきれません。そしてご来店のお客様、全ての方の幸せを心から願っております。

私は今日まで本当に本当にたくさん人から助けてもらい、励ましてもらい、温かくしてもらってきました。なので、困っている人の助けになりたいと思っています。でも、47歳の私は若い時みたいには動けないです。水泳や薙刀をやっていたスポーツ女子だったのははるか昔で、普通におばさんです。言うほど頑張れません。それでも、いつも頭の中にあるイメージは、自分のその時々左側に立っている人の口に私が右手にもったスプーンで温かいスープを与えれば、私も右にいる誰かから、温かいスープが自分の口に入って来る。という絵です。幸せは自分だけではなく、誰かと分かち合ってこそ。
これを忘れずに働けたことが何よりも幸せです。

多くの学びの中に身を置けたことに感謝して記録とします。